アウシュビッツで会う友人

kaelshojo2007-01-12


藤井郷子さんのLIVEに行ってきました。

藤井郷子さんは、今世界的に活躍されているFree Jazzのピアニストで、特にヨーロッパ圏のJAZZシーンに
与えている影響が大きいと聞きます。(実際、ライブ会場には外国のプレーヤーらしき人が何人かいました。)


1stセットは、夫の田村夏樹さん(Trumpet)とのDUOで始まりました。
藤井さんが始めに引き始め、楽器による対話が始まります。
文字通りFreeなので、特に具体的な譜面はなく、あくまで“対話”、相手の音域、間を読みながら静かに音の
ヴィジョンを形作っていきます。とても神経質で、繊細な作業です。

此の時、藤井さんと田村さんは夫婦であって、夫婦でない、と感じました。
相手に対する優しさを感じさせる瞬間もあれば、それぞれが夫婦でありながらお互いつまりは孤独なのだ、と
感じさせる場面もあります。
音と音の間を、譲り、奪い、共有し、跳ね除け、遠ざかっては近寄りながら、「絆」を提示していきます。

僕は次第に打ちのめされていきました。何故か、強烈に人恋しくなったのです。



1stセットが終わり、藤井さんが、
「1stセット弾いた曲は、今度発売されるNEWアルバムから抜粋したものです。
そのアルバムは、アウシュビッツで録音しました。本当に本当に、夜が暗いところなんです。」

アウシュビッツか、と思いました。
アウシュビッツ、という情報が強すぎて、僕はどういう気持ちになっていいか分からず、しばらく困惑していました。


ただ、藤井さんがアウシュビッツ。と云った瞬間、僕は幼馴染のU君のことを考えていました。

理由は単純で、DUOをやった田村さんが、U君の面影と似ていたからです。


U君は、とても優しい人です。小学校から高校まで一緒でした。
田舎で学生を過ごした時間の、99%は優しく紳士に接してくれたいたと思います。

ただ一度だけ、高校のころ一緒にふざけていたら、グーのパンチがU君の頬骨にあたり、刹那、彼に胸倉をグッ!
と掴まれたことがあります。

それは、とても怖い体験でした。
彼も、実はグーパンチに本能的に反応して、痛みから自分を防御する為に咄嗟に手が出たのかもしれません。
だからこそ、僕も本能的に恐怖を感じたのかもしれません。


「やばい、殺される。」と。



アウシュビッツで過ごしたユダヤ人は、いつも本能的だったのではないでしょうか。
いつでも殺される、という恐怖に身をさらしながら生きていたのですから。


藤井さんが音を残したアウシュビッツの中で、僕とU君が再会したような錯覚を覚えました。
安易な妄想かもしれません。怒られそうです。でも、そう感じたのです。感じたのを、どうしても止めれないのです。



人恋しい。と願って、U君と再会したのは、アウシュビッツ
本当に本当に暗いところで、僕は胸倉をつかまれ、銃を突きつけられます。
僕は殺されるかもしれない、と怯えながら、しかしU君はすごく優しい目で、僕の恐怖を気遣います。
僕は多分絶対殺されない、という確信は、彼の優しさが保証してくれるけど、そういう形でしか出会えない、
という現実も容赦なく見せ付けます。


それが、JAZZ。

JAZZはよく都市の孤独を具現化したものだと云われます。
皆理由がわかない寂しさを抱えてBARに集まり、とりあえず下品な話をし合って、俺らは一人じゃないと自分に思い
込ませて、一杯500円の酒を何杯も煽って、潰れて、朝起きたら一人で、また満員電車に乗って。

都市生活者を、無条件で優しく包むJAZZ。暖かいのに、寒い音楽。
JAZZは、人が集まるようになったその瞬間から、体に組み込まれていたものかもしれません。
人が人を知って、孤独を発明し、それに絶望して死なないように。安全弁として。

そして、安全弁のU君。
東京で、アウシュビッツで僕が死を感じるほど苦しい時、U君は銃を突きつけて、「生きろ」って云うんです。

U君は、本当に本当に本当に優しいのです。






全ての演奏が終わって、アンコールがあり、藤井さんは会場に戻ったけど、夫の田村さんは観客席で酔っ払っていました。

藤井さん 「田村さん、酔っ払ってるの?」
田村さん 「酔っ払ってまーす」
藤井さん 「演奏できる?」
田村さん 「ごめんね」

それまで、ものすごく緊張していた会場の空気が、一気に柔らかくなりました。
すこしづつ硬い空気が笑い声と共に抜けて、孤独の隙間が笑いで満たされていきます。 

Free Jazzというと、一見ひどく硬質で近寄るとこちらも傷つきそうな音楽を連想するけど、それを奏でている人達は実際は、
人の痛みを知っていて、すごく人情深いんじゃないかと思いました。

人が好きじゃないと、とても出来ない音楽です。孤独を受け入れていないと、出来ない音楽です。
藤井さんは、世界中の彼女を知る孤独な人たちに、いつだって優しく銃を向けて、命を救っているような気がします。





僕は、一人新宿の街を帰りながら、頭の中に藤井さんのアウシュビッツの音楽が流れていて、それほど淋しくはありませんでした。

ななめ

kaelshojo2007-01-09


ななめに見える。

写真の不思議な発見をしました。
この写真の主役は真ん中の樹で、この樹を傾けて撮ったら、
風景全体が傾斜しているように写りました。


一枚の写真を見るとき、その写真の情報によって、見る人の目線は
ある程度誘導されているものだと思います。
例えば、家族写真だったら、まず当然家族に注視します。
一番最初に、家族が座っている椅子は見ませんよね。


何気ない街角の風景でも、その人の持つ記憶や視点の“くせ”によって、
極めて独特な、写真の上を泳ぐ視線の舵取りがされます。
電信柱を見る人もいれば、ビルの輪郭をなぞる人も、空の青に見とれる人もいます。
この「舵取りの個性」は色々研究してみたいものですけどね。

例えば、A君という少年に、A君の家族写真を加工したもの(お父さんやお母さんの
顔を他の家族の顔や、A君の好きなTVヒーローの顔に挿げ替える)を何十枚も見せたら、
A君の視線や記憶の形成にどういう影響が出るのだろうか・・・などなど。



ともあれ、この写真は「ななめに見えた」ことが肝要なのだ、と感じました。
樹は僕の個人的な記憶と関係あるからかも知れませんが、“樹”の存在は色んな人に
とって普遍的な存在ですもんね。

写真の中の“樹”の情報を、うまく操作することが出来たら、かなり面白いことが出来るかも
しれません。色んな人の視線の共通点みたいなものも探れるかも。

“樹”以外に、空の青、海の青、両親の肌の色、赤ちゃんの肌の色・・・無数の普遍的な
オブジェクトが、色とりどりにありそうです。
出来ればそういう写真のなかの普遍を、思うようにデザインしてみたいものですね。
そうすれば、何てことない写真が、ななめに見えたり、真っ青に見えたりして、実に楽しそうです。

イノシシタイガー年

kaelshojo2007-01-05


今年はイノシシ年ですが、ここは敢えてタイガーで祝います。
写真の彼は明らかに偽タイガーですが、学生のころの僕の心のヒーローであったことは間違いありません。


偽タイガーは僕と同輩の油絵描きさんで、学生プロレスタイガーマスクだった人です。
「偽」とはいえ、彼の演じるタイガーは愛に満ちており、僕にとってだけではなく、彼のプロレスを見ている観衆全てにとって“真”のタイガーマスクだったと思います。

ゆうに100㎏は超える巨体のタイガーの、ジャンピング・ローリング・ソバットは実に見事でした。

優雅、の一言。


タイガーさんのやさしさのことを考えながら、イノシシ年を迎えます。
干支は違うけど、そんなタイガーさんを敬う心持で2007年を送りたいと思います。

よいお年を・・・

kaelshojo2006-12-29


ここ一ヶ月忙しくて更新できなかったのですが、再開です。
隙を見て地道に写真をアップしていこうと思っています。

2007年は一日一写真を習慣ずけたいですね。


ともあれ。
2006年に撮った風景は、一度記憶の中に見送ることにします。


皆さん、よいお年と、よい思い出を。

Miss.Annに会ってきた

kaelshojo2006-12-01


Miss.Annは正確に言うと、人ではない。
Miss.Annは恐らく実在するけど、実際よく知られているのは、Miss.AnnがJAZZの有名な曲だから。


僕の日記にたびたび出てくる、僕の大好きなJAZZ SAX奏者のERIC DOLPHY
彼が正に死ぬ直前に吹き込んだ「LAST DATE」ってアルバムに収録されているのが、Miss.Ann、という。

ERIC DOLPHYがごく個人的にMiss.Annって女性に捧げた曲かもしれない。JAZZでは、(広い意味で)愛している誰かに曲を捧げることはよくある。だからDOLPHYがMiss.Annを大切に想って書いた曲だとしても、それは不思議じゃない。
DOLPHYとMiss.Annの関係を想像するのはとても魅力的だけど。

でも、それは単に男と女の関係でもない、思う。それは無粋だし、何より彼の絶唱、いや断末魔とも云うべき、命を燃やすような、切実な音が吹き込まれているから。
死期を悟りながら、なお想う女性の歌って、一体何だろう。
実際の演奏としてのMiss.Annは、全く甘くない。辛い、のでもない。「痛い」のだ。


Miss.Annは、時に悪魔だ。聴く人を困惑させ、逃げることを許さない。DOLPHYは、そういうことをとても真面目に強いる。
それはいつしか身体的な快感になって、決して聴きやすくはない「痛い」音が、僕らを完全に支配する。


Miss.Annは、僕を支配している。



実は。
今日なんでこんなことを書いたのかというと、JAZZのLIVEに行ってきたからだ。

DAVID MURRAY。

DOLPHYと同じ、SAX奏者。
二人はJAZZではかなり稀なバス・クラリネットを使う所で共通している。
バスクラは、実は大変に難しい楽器で、これを自在に操る人は殆どいない。
二人とも、名手なのだ。

でも、僕が彼らが似ているな、と感じる一番のポイントはバスクラではない。

それは、彼らが音を発したときに生じる、幻影にある。
人にイメージを思い浮かばせるような、そんな演奏をする。
といっても音から「連想」させるような、生易しいもんじゃなく、圧倒的な音圧で、こちらにイメージを炙り出させるのだ。


目が、ジゎ〜っと熱くなる。
音がどんどん僕の中に入ってくる。抵抗は出来ない。
次第に目の前に何らかのイメージの風景が浮かんでくるが、イメージを選択できる余地はない。
聴く人の心の奥底に眠っている、殆ど本能とも云っていいレアなイマジネーションの陽炎を、目の前で結んでくれる。

結ばれた像は、言葉や理性以前の、原始的な強さがある。
屈強で荒々しく、今の人たちがもう忘れてしまったものだ。


DOLPHYがMiss.Annを呼び覚ますとき、それは恋愛ではなく、どこか獣の生殖を思わせるような、強烈な幻視体験をさせてくれる。
MURRAYも、それに非常によく似た感覚を、思い出させるのだ。



ワン・ドリンク制で頼んだウィスキーがじんじわ体をめぐり、同時にMURRAYの彷徨も、僕の皮膚感覚を麻痺させていく。
ものすごいヴァイブレーションが、僕の表皮と内面で摩擦する。

絶えれなくなって、ギュッと目を閉じると、そこにユラり、ユラり・・・と、Miss.Annが現れてくる。


Miss.Annは、何も言葉を発することなく、ただ圧倒的な存在として、こちらを見つめるだけだ。SAXの音の嵐に囲まれながら、獣の目で、慈悲に満ちた目で。


Miss.Annは、人の「狂気」の総称かもしれない。
狂気は、誰にでも存在する。心の奥底に眠っているものを、DOLPHYもMURRAYも、SAXを使って呼び起こすのだ。


スネーク・ショウの蛇みたいだな。なんて自分の稚拙な冗談に苦笑していると、Miss.Annはまるで僕に興味をなくしたみたいにいなくなった。


LIVEは既に終わっていた。
呆然として、僕はLIVEが終わったことを気づかなかったのだ。
今、聴いていたのは、やはり幻だったのか・・・?



Miss.Annが去り際、彼女がはいていたタイトなスカートを脱いで、豊かで強靭な足を見せてくれた。


「あなたは何も見てないのね」


という感じで。
艶やかな長い足が、僕を突き放すように目の前で踊る。


その時。
MURRAYは余裕たっぷりにアンコールに応えて、スポットライトにギラッと光るバスクラを演奏していたのだった。





写真の少年は、誰かを振り返っている。誰だろう?
僕はMiss.Annであってほしい、と願う。それが僕の想像力を導いていく。

Miss.Annは、どこにでもいる。
ただ、人生の問題は、彼女を呼び出せるかどうかだ。