Miss.Annに会ってきた

kaelshojo2006-12-01


Miss.Annは正確に言うと、人ではない。
Miss.Annは恐らく実在するけど、実際よく知られているのは、Miss.AnnがJAZZの有名な曲だから。


僕の日記にたびたび出てくる、僕の大好きなJAZZ SAX奏者のERIC DOLPHY
彼が正に死ぬ直前に吹き込んだ「LAST DATE」ってアルバムに収録されているのが、Miss.Ann、という。

ERIC DOLPHYがごく個人的にMiss.Annって女性に捧げた曲かもしれない。JAZZでは、(広い意味で)愛している誰かに曲を捧げることはよくある。だからDOLPHYがMiss.Annを大切に想って書いた曲だとしても、それは不思議じゃない。
DOLPHYとMiss.Annの関係を想像するのはとても魅力的だけど。

でも、それは単に男と女の関係でもない、思う。それは無粋だし、何より彼の絶唱、いや断末魔とも云うべき、命を燃やすような、切実な音が吹き込まれているから。
死期を悟りながら、なお想う女性の歌って、一体何だろう。
実際の演奏としてのMiss.Annは、全く甘くない。辛い、のでもない。「痛い」のだ。


Miss.Annは、時に悪魔だ。聴く人を困惑させ、逃げることを許さない。DOLPHYは、そういうことをとても真面目に強いる。
それはいつしか身体的な快感になって、決して聴きやすくはない「痛い」音が、僕らを完全に支配する。


Miss.Annは、僕を支配している。



実は。
今日なんでこんなことを書いたのかというと、JAZZのLIVEに行ってきたからだ。

DAVID MURRAY。

DOLPHYと同じ、SAX奏者。
二人はJAZZではかなり稀なバス・クラリネットを使う所で共通している。
バスクラは、実は大変に難しい楽器で、これを自在に操る人は殆どいない。
二人とも、名手なのだ。

でも、僕が彼らが似ているな、と感じる一番のポイントはバスクラではない。

それは、彼らが音を発したときに生じる、幻影にある。
人にイメージを思い浮かばせるような、そんな演奏をする。
といっても音から「連想」させるような、生易しいもんじゃなく、圧倒的な音圧で、こちらにイメージを炙り出させるのだ。


目が、ジゎ〜っと熱くなる。
音がどんどん僕の中に入ってくる。抵抗は出来ない。
次第に目の前に何らかのイメージの風景が浮かんでくるが、イメージを選択できる余地はない。
聴く人の心の奥底に眠っている、殆ど本能とも云っていいレアなイマジネーションの陽炎を、目の前で結んでくれる。

結ばれた像は、言葉や理性以前の、原始的な強さがある。
屈強で荒々しく、今の人たちがもう忘れてしまったものだ。


DOLPHYがMiss.Annを呼び覚ますとき、それは恋愛ではなく、どこか獣の生殖を思わせるような、強烈な幻視体験をさせてくれる。
MURRAYも、それに非常によく似た感覚を、思い出させるのだ。



ワン・ドリンク制で頼んだウィスキーがじんじわ体をめぐり、同時にMURRAYの彷徨も、僕の皮膚感覚を麻痺させていく。
ものすごいヴァイブレーションが、僕の表皮と内面で摩擦する。

絶えれなくなって、ギュッと目を閉じると、そこにユラり、ユラり・・・と、Miss.Annが現れてくる。


Miss.Annは、何も言葉を発することなく、ただ圧倒的な存在として、こちらを見つめるだけだ。SAXの音の嵐に囲まれながら、獣の目で、慈悲に満ちた目で。


Miss.Annは、人の「狂気」の総称かもしれない。
狂気は、誰にでも存在する。心の奥底に眠っているものを、DOLPHYもMURRAYも、SAXを使って呼び起こすのだ。


スネーク・ショウの蛇みたいだな。なんて自分の稚拙な冗談に苦笑していると、Miss.Annはまるで僕に興味をなくしたみたいにいなくなった。


LIVEは既に終わっていた。
呆然として、僕はLIVEが終わったことを気づかなかったのだ。
今、聴いていたのは、やはり幻だったのか・・・?



Miss.Annが去り際、彼女がはいていたタイトなスカートを脱いで、豊かで強靭な足を見せてくれた。


「あなたは何も見てないのね」


という感じで。
艶やかな長い足が、僕を突き放すように目の前で踊る。


その時。
MURRAYは余裕たっぷりにアンコールに応えて、スポットライトにギラッと光るバスクラを演奏していたのだった。





写真の少年は、誰かを振り返っている。誰だろう?
僕はMiss.Annであってほしい、と願う。それが僕の想像力を導いていく。

Miss.Annは、どこにでもいる。
ただ、人生の問題は、彼女を呼び出せるかどうかだ。