消しゴムとエンピツの行く先

kaelshojo2007-03-31


消しゴムとエンピツは、刻々と変化するお守りだと思う。

毎日毎日使うから、一日として同じ形を留めていることはない。


使う者の意思に削られるように、消しゴムもエンピツもすこしづつ消耗していく。
消耗していく。というよりは、白いゴムと黒炭が「書きたい」という気持ちに昇華され、粒子になって空中に舞い飛んでっているようだ。


意思は粒子になる。

その粒子は夢中で書いている間は目に見えないけど、ふっと手を休めて目の前の空気を眺めてみると、自分の意思だったものの名残り滓のようなものがそこに淡ぁく浮いていて、少し愛おしくなる。

自分の中にあったものが、自分から離れて世界に溶け込んで心と無関係になっていく。その情景は決して悲しいことではなく、むしろ安心を覚えるものだ。
自分の中の未解決の意思を、何かを書くことで解決していくことは、自分自身を世界に解き放ちたいからなのかもしれない。


そういう時、手元には消しゴムとエンピツがある。
いつも自分の気持ちの傍にある、お守りのように。



今日も心を削る。
消しゴムがすり減る。
エンピツが短くなる。

それらの粒子は一つの塊になって、風船のように中空に消えていく。
高校生だった僕は、それを学校の机から見送っていた。


そういうことを、少し書いてみたくなった。
お守りを用意しよう。

やさしき自販機

kaelshojo2007-03-18


僕の家の近くには環七という大きな環状の道路が走っている。

道路沿いには、何百メートルかおきに自販機が置かれていて、夜になるとこっそり世界の裏側を照らすように、ささやかな明かりを灯す。


いつからか飲み物を必ずコンビニで買うようになってしまってから、自販機は僕らの生活そのものから離反し始めている。

子供の頃、自販機でジュースを買うという行為は何か秘密めいた贅沢をしているような、特別な儀式であった思う。
自販機で買った甘い甘い炭酸水は、ゆっくり丁寧に味わったていたものだ。少なくともコンビニで買うより、自販機で買った方が、飲むって意識を強く感じることが多い。


僕の記憶の中にいつまにか住み着いて、緩やかにその存在を主張する。それはどこか母や父の声と似ていて、困った時や苦しい時に、優しく語り掛けてくる。
僕自身が人生で闇の中にいる時、自販機は声を持たない代わりに、弱い光をしっかりと照らし温めてくれる。


不思議だけど、自販機は子供だった僕らの味方だったような気がする。
その感覚に根拠はないけど、そういう気持ちが分かる人は結構いるんじゃないかと思う。


自販機は、僕らの味方だ。



今、自分自身の生活そのものから、また記憶そのものから自販機の存在が消え去ってしまおうとしている。
それは、昔からの友達が大人になって、忙しくなって少しづつ疎遠になっていく様子と似ていて、生理的な淋しさが伴う。

目を閉じて、ゆっくり瞼の裏側の闇に住んでいるはずの自販機に、声を掛けようとする。うまくイメージできない。子供だった頃は、呼べば現れていたはずなのに。



社会人になって、深夜帰宅する為にタクシーを走らせていると、ある一定のリズムを持って、道路沿いに自販機の光が流れていく。
そのリズムは弱々しいけど、確かに僕の幼い頃の記憶を刺激して、大人になった今でも僕の傍にいることを穏やかに教えてくれる。

けど、自販機に身を委ねることは出来ず、タクシーはただ無感動に彼らを通り過ぎていくだけだ。



そしてタクシーはコンビニの前で止まる。
僕はそこで降りて、いつものようにペットボトルのお茶を買う。


僕は自分が来た道を振り返って、自販機が自分の心の中にまだいることを確認して、当てにならない安心を覚えて家へ向かう。
いつまで彼らのことを忘れないでいることが出来るだろうか。



大人になって、自販機に甘えるのはそんなに悪いものじゃない。

おいなりさん

kaelshojo2007-03-12


深海から拾ってきたようなしっとりした油揚げに、ひっそり身を隠しているおいなりさんが好きです。


コンビニの片隅でひっそりと佇むさまが何ともいえない切なさを誘って、へたっとガラス棚に寝そべっている彼らを見ると、まるで不幸の快楽を味わうような危うい心地になってきます。


都会のおいなりさんは、諦めと喪失感に満たされていて、だめだなぁその自己主張じゃ多分食べないなぁと思っているのに、つい手に取ってみる。
でも、結局は買わない。微妙な微妙な、人の機微の隙間を水母みたいに漂って、結局は存在しないものとして、僕らの前を通り過ぎていく。


だれ?と聞いても、あーともうーとも云わず、東京中のあらゆるコンビニ棚に一斉に浮かぶおいなり水母。



油断していると、あっというまに黄金色の水母に囲まれて、僕の住む町は深海になる。

灰色の街に、鈍い鈍い光が灯りだす。
その光のシグナルは、誰に向けて放つともなく、ただ信号機のように特定の機能を果たそうとする。果たそうとするが、機能自体見出せないので、やはり無駄なのだ。

美しいものには、無駄なものが多いんだよ。とおいなりさんが囁くのを、コンビニ店員は聞き逃さなかったりする。



深海は水圧がすごくて、隣の人とも話すことが難しい。
一人で暮らすことの重みが、柔らかい水圧と共に、ゆっくり皆を押し潰す。

身を委ねれば、すぐにでも藻屑になれるだろう。
おいなりさんの大群が、この身を食してくれるだろう。



でも、僕はおいなりさんを元のガラス棚に戻す。
遠くにいくのを見守る。

それでほんの少しの優しさを覚えた気になる。
その種の優しさは、覚えたほど死に近づくことも知らずに。

猫又

kaelshojo2007-03-09


家の近くには猫がいっぱいいます。あらゆる隙間に猫がいます。


そして、すごく足が速い。あ。と思った瞬間には、ワープしたようにパッと移動していたりします。

ワープしても、こちらに警戒しているときは常に同じ目線を投げかけてくるので、例え一匹の猫だとしても、色んなワープ先から目線を送ってくるので、何匹何十匹にもかんじることがあります。
これはなかなか怖い経験です。怖いのは、未知の存在と対峙しているときに感じる恐怖のことです。


一匹の猫と、無数の妖怪。


化け猫とか猫又、とか猫の妖怪が多いのは、猫が家の隙間を縫うすばしっこさが関係していると思いました。
しかも、建物の個性によって猫の動きや運動能力の個性にも差が出てくるので、その数だけ色んな数の猫又が存在しているとしても不思議じゃありません。
そのことが、妖怪のおかしみにも親しみにもなっている。


つくづく、妖怪というやつは人が生み出すものだな、と改めて思いました。
一匹の猫を何匹もいると思って、猫の存在を抽象化してしまっている、臆病な僕がいます。

臆病な一人の男の心の中に猫によって地図が作られ、時には動揺し、興奮し、頭の中の抽象的な現象が起こる。
この現象のことを「妖怪」という。
こう記すととても当たり前のことだけど、そういう妖怪=人間が、猫を通して愛しくなる瞬間があります。



家の前、じっと僕を見つめる猫は、もうどこかに消えていて、淡い視線の名残だけが中空に漂っていました。

花粉と風化の粒々の中で

kaelshojo2007-03-07


花粉対策で、スキンヘッドにしました。

これなら髪の毛に花粉の粉粒がくっ付いて、くしゃみ鼻水に悩まされることはありません。



髪を剃ることは世俗から離れる験(しるし)だと聞きましたが、お地蔵さんの世界では、ちょっと違うようです。

放置され、風化によってその石の地肌に草木の毛を生やすことで、世間から離れていくように思います。

僕は人に見放され、毛の生えたお地蔵さんが好きです。


ただ、お地蔵さんは元々現世から一つ浮いたところにいる存在なので、彼らが彼らのいる次元の世界を離れるということは一体どういうことなのかな、と思いました。


極楽?ではないでしょうね。
高いところに行っても、どこからか田んぼや畑、庭や家、土地を見守る。その目線が高くなっても、お地蔵さんは自分の足元を見てくれている。
人の自愛は限りがあるけど、自分でお地蔵さんの写真を撮りながら感じるのは、彼らの表情の中に、深い深い、底知れぬ眼差しがあるということです。

そしてその眼差しというは、土地を慈しみながら、土地から決して離れることができない呪縛の矛盾を何千年何万年も抱えながら、ようやく手に入れたものかもしれません。
それは等しく、人間の歴史の苦悩とシンクロするものです。


いつか、僕自身、風化によって高い目線を手に入れられることを願っています。写真を撮るのは、そのためかもしれません。


風化する目線と、丸くなった頭。
痒い目を擦りながら、僕はまだまだ永い時間を生きなければいけないようです。

SF Jazz Collectiveは女性の隣にある。

kaelshojo2007-02-28


久しぶりにBLUE NOTE TOKYOに足を運んだのは、JOSHUA REDMAN(TENOR SAX)の主催するSF Jazz CollectiveがLIVEに来ていたからです。

SF Jazz Collectiveは、サンフランシスコの全米最強ジャズ・オーガニゼーション。ベテランから若手まで、優れた才能を持ったプレーヤーが流動的に入れ替わりながら、JAZZの未開の地を切り開いていく壮大なプロジェクトです。

ORNETTE COLEMANHERBIE HANCOCKといった巨匠の古典をベースにしながら、鋭い解釈と高度な演奏を展開していきます。

JAZZというと一般に古い音楽だと思いがちですが、JAZZほど自らの進化に対して真摯で苦悩に満ちた音楽はなかなか他にありません。都市の音楽は進化を強制されます。人の感性に敏感だからです。都市は人が密集するところです。

そういう音楽が今現在どういう変貌を遂げているのか、興味のある方は是非↓

http://www.sfjazz.org/index.asp





さて、ここでJAZZのマニアックな話をしてもあれなんで、気になった隣のお客さんのことを書きます。



それは、僕の隣に座っていた女性二人組でした。

30歳半ばくらいでしょうか。僕がブランデーを頼んだのに対して、彼女達はハイネケン2本ととイカリング、シャーベットを頼んでいました。

その気取らない感じに、とても好感が持ちました。

女性達はパクパクとイカリングを口に放り込み、本当に音もなく咀嚼して、同時に愉快そうに演奏を耳の中に消化していきます。

二人は殆ど会話をしませんでしたが、表情のやり取りやイカリングのことで彼女達の間にある、濃密な人間関係は推測できました。

そして、その姿がどこか颯爽としてて、こういう人がJAZZを聞くのを眺めるのは心地いいものだと思いました。



LIVEも終盤に差し掛かってきた頃、JOSHUA REDMANがメンバー紹介をしました。

メンバーの中には決して有名ではない、これから伸びるであろう若者もいたのですが、その若いプレーヤーの紹介が始まったや否や、例の隣の女性二人はおもむろにメモ帳を取り出しました。

そして丁寧にペンを選んで、丁寧にその無名の者の名前を熱心に書きこんでいきます。書き起こすことで、彼女達は無名の存在を、彼女達の人生においてある重要な意味があるものとして、心の水面上に引き揚げていこうとします。

その作業は実に丹念なもので、思いがけずその丹念さに心を打たれました。またそんな自分自身に驚きもありました。



東京で働いて、自分の力だけで生きている女性というのは、強いところと弱いところがあるのだと思います。

強いところは自立心のことでしょうか。たった一人で寒い東京に足を踏ん張るのは決して楽なことではありません。

彼女達は実際に立っています。それが力です。

しかしその強さは油断したときに一気に消え去り、次に弱さが静かにその姿を現します。

ほっ、と一息したとき、孤独は一気に体を覆いこみ、遠い場所から響いてくる消防車の不穏なサイレンように、うっすらと深く深く不安を誘います。



強さと弱さは常にバランスをとっていて、時折彼女達のような行動を取らせるのだと思います。

母親みたいだな、と思いました。

気取らない性格は母親のそれであり、神経質にペンと言葉によって無名の母親になろうとする姿も、息子を心配しつつ支配下に置きたいという、母性特有の所有欲を感じます。



本当に熱心に書くので、僕は圧倒されました。きっと彼女達は、無名の母になり、息子のLIVEに律儀に足を運ぶのでしょう。

どことなく寂しく、悲しみを背負った空気を漂わせますが、JAZZはそういう女の子を優しく包み込む力があるのです。

気付くと、彼女達のイカリングは空になっていて、シャーベットは殆ど手を付けることがないまま、氷山が溶けるように、皿に小さな湖を作っていました。





帰りがけ、BLUE NOTEから幼さを残す可愛らしい感じの女の子のスタッフが、両手に大きな大きなゴミ袋を抱えて、すいすい道路を渡るのとすれ違いました。

行動と顔の不釣合いが最初は違和感に感じたのですが、その瞬間さきほどの女性二人のことを思い出して、東京で生きる女の子のたくましさを感じました。

女の子のゴミ袋の中には、女性達の残したシャーベットが入っているのでしょう。

ゴミとゴミ袋の関係から、お互いが決して心を通わすことなんてないんだけど、僕はその事実が一つのドラマであり、人生であるような気がしました。

そういう風景のそばに、JAZZはあるものだと改めて感心しました。

死の叙景

kaelshojo2007-02-22


朝、起きて窓を開けると、必ず向かいの家のお婆さんが洗濯物を干している。


目は合ったことがあるけど、まだ挨拶は交わしていない。
老人独特の防壁というか、中々心を開かない硬い土のような雰囲気が、僕らを目礼だけに留まらせている。それ以上彼女を掘り返すことを許さない。


あっ、という間にお婆さんは干し終わると、いつも音もなく家の中に消えている。
僕は、まるでフェード・インするみたいに干し竿に、白い肌着が掛かっているのを目撃する。


肌着には辛うじて太陽が差し掛かっていて、まるで静止画を見ているみたいに、目の前の何もかもが微動だにしない。
僕はそれを眺めているのか眺めていないのか分からなくなって、僕自身も静止画になったような心地になる。

ピタッ、と白い肌着形の図形がある抽象的な意味を持って、空中に均等に並ぶ。


猫が軒下からすっ、と出てきて早足に走り去る。気づいたときにはもう、猫の残像すら残っていなくて、元の静止画の風景に戻る。音はしない。


風景というものは、いつも幸福を湛えているとは限らない。
むしろ、人の営みの中には小さな不幸が点在している。しているからこそ、人を超えた太陽や風、陰や雨といった大きな存在に包まれたとき、目の前の風景は一気に優しいもののように感じる。


朝の冷たい空気が、お婆さんと僕の孤独を包み込む。



それは毎朝否応なく繰り返されて、僕の人生ではどうにもできない圧倒的な力を持つ。
その力は、家の中で毎日埃が溜まっていく力と同じだ。
毎日毎日丁寧に埃を拭き取っても、それは必ずどこからか舞い降りて、僕らの生活をうっすら灰色の膜で覆っていく。


その膜は、どこかでいつも自分自身の死を連想させる。



毎日毎日少しづつ僕らの体に堆積していくものが死だとしたら、僕は恐らくそれを美しい、と考えている。