SF Jazz Collectiveは女性の隣にある。

kaelshojo2007-02-28


久しぶりにBLUE NOTE TOKYOに足を運んだのは、JOSHUA REDMAN(TENOR SAX)の主催するSF Jazz CollectiveがLIVEに来ていたからです。

SF Jazz Collectiveは、サンフランシスコの全米最強ジャズ・オーガニゼーション。ベテランから若手まで、優れた才能を持ったプレーヤーが流動的に入れ替わりながら、JAZZの未開の地を切り開いていく壮大なプロジェクトです。

ORNETTE COLEMANHERBIE HANCOCKといった巨匠の古典をベースにしながら、鋭い解釈と高度な演奏を展開していきます。

JAZZというと一般に古い音楽だと思いがちですが、JAZZほど自らの進化に対して真摯で苦悩に満ちた音楽はなかなか他にありません。都市の音楽は進化を強制されます。人の感性に敏感だからです。都市は人が密集するところです。

そういう音楽が今現在どういう変貌を遂げているのか、興味のある方は是非↓

http://www.sfjazz.org/index.asp





さて、ここでJAZZのマニアックな話をしてもあれなんで、気になった隣のお客さんのことを書きます。



それは、僕の隣に座っていた女性二人組でした。

30歳半ばくらいでしょうか。僕がブランデーを頼んだのに対して、彼女達はハイネケン2本ととイカリング、シャーベットを頼んでいました。

その気取らない感じに、とても好感が持ちました。

女性達はパクパクとイカリングを口に放り込み、本当に音もなく咀嚼して、同時に愉快そうに演奏を耳の中に消化していきます。

二人は殆ど会話をしませんでしたが、表情のやり取りやイカリングのことで彼女達の間にある、濃密な人間関係は推測できました。

そして、その姿がどこか颯爽としてて、こういう人がJAZZを聞くのを眺めるのは心地いいものだと思いました。



LIVEも終盤に差し掛かってきた頃、JOSHUA REDMANがメンバー紹介をしました。

メンバーの中には決して有名ではない、これから伸びるであろう若者もいたのですが、その若いプレーヤーの紹介が始まったや否や、例の隣の女性二人はおもむろにメモ帳を取り出しました。

そして丁寧にペンを選んで、丁寧にその無名の者の名前を熱心に書きこんでいきます。書き起こすことで、彼女達は無名の存在を、彼女達の人生においてある重要な意味があるものとして、心の水面上に引き揚げていこうとします。

その作業は実に丹念なもので、思いがけずその丹念さに心を打たれました。またそんな自分自身に驚きもありました。



東京で働いて、自分の力だけで生きている女性というのは、強いところと弱いところがあるのだと思います。

強いところは自立心のことでしょうか。たった一人で寒い東京に足を踏ん張るのは決して楽なことではありません。

彼女達は実際に立っています。それが力です。

しかしその強さは油断したときに一気に消え去り、次に弱さが静かにその姿を現します。

ほっ、と一息したとき、孤独は一気に体を覆いこみ、遠い場所から響いてくる消防車の不穏なサイレンように、うっすらと深く深く不安を誘います。



強さと弱さは常にバランスをとっていて、時折彼女達のような行動を取らせるのだと思います。

母親みたいだな、と思いました。

気取らない性格は母親のそれであり、神経質にペンと言葉によって無名の母親になろうとする姿も、息子を心配しつつ支配下に置きたいという、母性特有の所有欲を感じます。



本当に熱心に書くので、僕は圧倒されました。きっと彼女達は、無名の母になり、息子のLIVEに律儀に足を運ぶのでしょう。

どことなく寂しく、悲しみを背負った空気を漂わせますが、JAZZはそういう女の子を優しく包み込む力があるのです。

気付くと、彼女達のイカリングは空になっていて、シャーベットは殆ど手を付けることがないまま、氷山が溶けるように、皿に小さな湖を作っていました。





帰りがけ、BLUE NOTEから幼さを残す可愛らしい感じの女の子のスタッフが、両手に大きな大きなゴミ袋を抱えて、すいすい道路を渡るのとすれ違いました。

行動と顔の不釣合いが最初は違和感に感じたのですが、その瞬間さきほどの女性二人のことを思い出して、東京で生きる女の子のたくましさを感じました。

女の子のゴミ袋の中には、女性達の残したシャーベットが入っているのでしょう。

ゴミとゴミ袋の関係から、お互いが決して心を通わすことなんてないんだけど、僕はその事実が一つのドラマであり、人生であるような気がしました。

そういう風景のそばに、JAZZはあるものだと改めて感心しました。