死の叙景

kaelshojo2007-02-22


朝、起きて窓を開けると、必ず向かいの家のお婆さんが洗濯物を干している。


目は合ったことがあるけど、まだ挨拶は交わしていない。
老人独特の防壁というか、中々心を開かない硬い土のような雰囲気が、僕らを目礼だけに留まらせている。それ以上彼女を掘り返すことを許さない。


あっ、という間にお婆さんは干し終わると、いつも音もなく家の中に消えている。
僕は、まるでフェード・インするみたいに干し竿に、白い肌着が掛かっているのを目撃する。


肌着には辛うじて太陽が差し掛かっていて、まるで静止画を見ているみたいに、目の前の何もかもが微動だにしない。
僕はそれを眺めているのか眺めていないのか分からなくなって、僕自身も静止画になったような心地になる。

ピタッ、と白い肌着形の図形がある抽象的な意味を持って、空中に均等に並ぶ。


猫が軒下からすっ、と出てきて早足に走り去る。気づいたときにはもう、猫の残像すら残っていなくて、元の静止画の風景に戻る。音はしない。


風景というものは、いつも幸福を湛えているとは限らない。
むしろ、人の営みの中には小さな不幸が点在している。しているからこそ、人を超えた太陽や風、陰や雨といった大きな存在に包まれたとき、目の前の風景は一気に優しいもののように感じる。


朝の冷たい空気が、お婆さんと僕の孤独を包み込む。



それは毎朝否応なく繰り返されて、僕の人生ではどうにもできない圧倒的な力を持つ。
その力は、家の中で毎日埃が溜まっていく力と同じだ。
毎日毎日丁寧に埃を拭き取っても、それは必ずどこからか舞い降りて、僕らの生活をうっすら灰色の膜で覆っていく。


その膜は、どこかでいつも自分自身の死を連想させる。



毎日毎日少しづつ僕らの体に堆積していくものが死だとしたら、僕は恐らくそれを美しい、と考えている。