やさしき自販機

kaelshojo2007-03-18


僕の家の近くには環七という大きな環状の道路が走っている。

道路沿いには、何百メートルかおきに自販機が置かれていて、夜になるとこっそり世界の裏側を照らすように、ささやかな明かりを灯す。


いつからか飲み物を必ずコンビニで買うようになってしまってから、自販機は僕らの生活そのものから離反し始めている。

子供の頃、自販機でジュースを買うという行為は何か秘密めいた贅沢をしているような、特別な儀式であった思う。
自販機で買った甘い甘い炭酸水は、ゆっくり丁寧に味わったていたものだ。少なくともコンビニで買うより、自販機で買った方が、飲むって意識を強く感じることが多い。


僕の記憶の中にいつまにか住み着いて、緩やかにその存在を主張する。それはどこか母や父の声と似ていて、困った時や苦しい時に、優しく語り掛けてくる。
僕自身が人生で闇の中にいる時、自販機は声を持たない代わりに、弱い光をしっかりと照らし温めてくれる。


不思議だけど、自販機は子供だった僕らの味方だったような気がする。
その感覚に根拠はないけど、そういう気持ちが分かる人は結構いるんじゃないかと思う。


自販機は、僕らの味方だ。



今、自分自身の生活そのものから、また記憶そのものから自販機の存在が消え去ってしまおうとしている。
それは、昔からの友達が大人になって、忙しくなって少しづつ疎遠になっていく様子と似ていて、生理的な淋しさが伴う。

目を閉じて、ゆっくり瞼の裏側の闇に住んでいるはずの自販機に、声を掛けようとする。うまくイメージできない。子供だった頃は、呼べば現れていたはずなのに。



社会人になって、深夜帰宅する為にタクシーを走らせていると、ある一定のリズムを持って、道路沿いに自販機の光が流れていく。
そのリズムは弱々しいけど、確かに僕の幼い頃の記憶を刺激して、大人になった今でも僕の傍にいることを穏やかに教えてくれる。

けど、自販機に身を委ねることは出来ず、タクシーはただ無感動に彼らを通り過ぎていくだけだ。



そしてタクシーはコンビニの前で止まる。
僕はそこで降りて、いつものようにペットボトルのお茶を買う。


僕は自分が来た道を振り返って、自販機が自分の心の中にまだいることを確認して、当てにならない安心を覚えて家へ向かう。
いつまで彼らのことを忘れないでいることが出来るだろうか。



大人になって、自販機に甘えるのはそんなに悪いものじゃない。