下手こそ

kaelshojo2007-02-17


何か習い事を始めるとき、最初は何でも下手なもの。

泳ぎ方を知らない子が、初めてプールに入ったとき、その泳ぎ方はきっと下手だ。
ピアノを知らない人が、始めて鍵盤を叩くとき、きっとメロディは崩壊し、下手な音楽になってしまう。

下手、というのは文字通りの言葉だけど、しかしこの言葉をジッと真剣に考えてみると実はとても美しい意味を秘めているのではないかと、考えた。


下手の価値。


下手は、まず目標とする到達点のイメージがあって、初めて生まれる概念。

綺麗な絵を描きたい。だから、絵の修練が始まる。
カッコいい音楽を演奏したい。だから、楽器の修練が始まる。
極端なことを云えば、小学生の頃から野球をやっている少年達の夢の向こうには具体的に「甲子園」や「プロ野球」という到達点があり、その点に向かって最初はグローブに巧く球が入らなかったり、バットにボールが当たらなかったりの【下手】を経験するのだ。


ゴールがあるからスタートがある。
ゴールのないスタートはありえないはず。
目標があるから、下手が存在するんだと思う。


この下手という状態は、向かうイメージのある本人とって一番苦しいものだ。歯痒いし、全く思い通りにならない自分の体がある。(下手は、身体性を伴うことが非常に重要なポイントだ。)

だから、下手な時期というのは、一番努力するのだ。
こうなりたい!でも、こうならない・・・悔しさもあるし、恥ずかしさもある。
理想との距離に愕然としながら、しかし這いつくばるように、前進を始める。


僕は思うのだ。このスタートを切ったばかりの不器用な人の姿は、無心で目標に向かっているという点で、非常に純粋なんじゃないだろうか、と。
表現をする人にとって、下手の状態は、実は表現者として一番純粋なはず。


ただただ少しでも上手くなりたいという一心で、自らの掲げる目標に対して全く雑念のない、ピュアな状態。


これが少しづつ上手くなりだすと、きっと様々の誘惑によって、濁りはじめる。
何々の大会で優勝したい。とか、あいつより上手くなりたい。そして、磨いた技術でできればお金を稼ぎたい、など。

具体的な目標が枝葉状に際限なく派生してくる。目標があまりにも現実的になるし、一つ一つの到達点が卑近なものになる。
リンゴの樹全体の成長が見えなくなり、リンゴの実一つ一つを育てようとしてしまう。目標が小さくなる。
こうなると最初のピュアな状態は維持しにくくなる。


下手なとき、向かう到達点はとても抽象的なもの。
太陽の光の如く輝く向こうの世界があって、暗闇から這い出るために、光に向かってがむしゃらに突き進む。
具体的な雑念がないから、自分の体を100%使い切ることができる。これが【下手】の最初の状態。完全なる身体。

上手くなるにつれ、この100%は結果の方に吸収され始め、その純粋さは段々と低下していく。


上手くなること自体わるいことでは決してないし、むしろ生きていくには必要なことだ。
下手は、それ自体生まれた時点で、徐々にその純粋さを失っていくのは一つの摂理だ。その純粋さを保つのは容易なことではない。不可能に近いかもしれない。



アウトサイダーアートの作家というのは、有名なヘンリー・ダーガーにしろ、自分が上手くなっているという自覚は殆どないはずだ。彼の人生の最初から最後まで、描いている絵というのは殆ど変化がない。
だから普通の常識のある人は驚く。


「これは、何て純粋な絵なんだろう!」と。


絵を見て純粋と感じているようで、実はある種の下手さを維持していることに、人々は驚くのだ。
ダーガーは自分の絵が褒められたいとは思っていない。彼の中に栄光とか実績は存在しないのだ。
ただただ己の中の光に向かって、淡々と歩んでいる姿は、きっとピュアに見えるに違いない。実際私達はそう思うから、金を払ってまでもその下手さを見に行くのだ。
奇跡が見たいのだ。




下手は、それ自身が初めて世に生まれたとき、最も純粋で、美しいものである。
日々を生きているとこのこと忘れがちだけど、下手の初期衝動はいつまでも胸の奥に映し続けたい、と願う。