海から来た先生

kaelshojo2006-09-19


高校生のころ、僕はよく亀の死体を授業中にイメージしていました。



教卓の上に、大きな親アカウミガメの腐った屍骸。



実は、それは僕が実際に目にした光景です。
小学生の頃、ボランティアの一環ででアカウミガメの保護活動をしていて、朝五時くらいに海岸沿いを見回るんですけど、その時に出逢ったんです。


親ガメの体は大きく、小学生のチビな僕にとって、それはバッタが死んだ。というような自分と距離のあるような客観視できる『死』ではありませんでした。


ほとんど、人が死んでいるような感覚が走ったのを覚えています。


それは、僕が初めて体験した『死』の瞬間でした。


言葉ではなく、腐臭が否応なく、僕に死を教えます。
鼻腔は抵抗出来ず、必死で死から逃れようとするけど、実際の僕は金縛りにあって、全く動けませんでした。



死は、圧倒的でした。



もの言わぬアカウミガメが、小さな僕に『死ぬ』ことを雄弁に語りかけてきます。それは大人になった今でも変わりなく、遠い記憶の彼方から、淡い潮騒の音と共に、静かに静かに死を教えてくれます。(それは僕自身が死ぬまで語り続けられるものだと思います。)



学校の先生は、教えることが曖昧です。
それは曖昧にしないと、仕方ないからです。もし、現実というものを、免疫のない子どもに生の状態で教えたら、それはただ無闇に子どもを不安に陥れるだけでしょう。曖昧な言葉の中で、少しづつ『死』を含めた人生、というものを諭していかなければならないから、先生という仕事はほんとに大変だと思いますが・・・


だから、当時の僕は、高校の先生の曖昧な言葉より、全然カメの屍骸の方が明確に人生を教えてくれたんでしょうね。


ハッキリと、その存在が死を示す。


死は、生きる上で学校のようなものです。
本当の学校より、ずっと現実を教えてくれます。


そういう経緯もあって、僕は教卓に、先生の代わりにカメの屍骸を夢想していたんだと思います。


ただ、先生の中には、生徒の中に、カメの屍骸(的なもの)を見る人もいると思います。
それが、生徒よりリアルだから。


お互いが、先生と生徒という関係を通して、自らのイマジネーションに学びます。そういう意味では、人間はいつだって対等ですよね。




今、これを書いているのが朝06:30。

小学生の頃なら、アカウミガメの保護活動を一しきり終え、心地よい汗と共に家に帰るとこです。


でも、そのときの僕は、大きな『死』の前に立ち尽くしていただけです。
朝日が波も、砂浜も、捨てられたコーラの缶も皆白い光でおおい、僕自身さえ光になったような錯覚を覚えます。


全てが真っ白に輝いた海岸の真っ只中で、ただ一人、カメの死だけは黒くハッキリと映え、闇を色濃く抱えています。



感動的で、絶望的で、そこにいけば今でも泣いてしまう、大事な故郷です。





少し人生に迷ったら、海の先生に、会いに行くんだ。