陰あるチャーハン

慣れない街でふと電車を降りて、あてもなく歩いていると、住宅街の一角にひっそりした中華屋がありました。


僕はお腹が空き始めていたので、その店に入ることにしました。
お腹が空いたのもそうだけど、その店が街全体が作る陰の中に馴染むように、自分の店がいるべき場所を知っている雰囲気に惹かれたところはあります。


店内には常連らしき数人のおじさんが、黙々と料理を待っていました。しかし、それは小さな飲食店に有り勝ちな侘しい風景ではなく、一瞬よくできたモノクロ写真を見ているような光景に映りました。
おじさん達のご飯を待つ姿勢に潔さがあったように思います。


「わたしは、中華を食べに来たのです」



はい。


と、いう感じで、目の前の厨房で夫婦の調理人が野菜やら肉やらを炒めます。(たとえその夫婦が「はい」と声を出さずに注文を受けても、小さく小さく「はい」と確かに体から聞こえてくるような、そんな印象のご夫婦でした。)



チャーハンを頼みました。



美味しかったです。


美味しくて、ここのご飯はメニューの何を頼んでも、当然美味しいものなのだ、という直感がありました。


チャーハンには陰があって、それは街がつくる陰の延長にあるものです。


この街で、チャーハンを作っていく覚悟とうものです。



僕は心を込めて
「ご馳走さま」
といいました。


無反応でした。


奥さんの方が僕の声に気付かない、少し狼狽した様子で、旦那を探していたんですが、旦那は具財を取るためにしゃがんでいました。


お金を払うと、夫婦はほんの少し笑って


「ありがとうございます」


と云ってくれました。

陰と日向の境界線が滲む午後。









夜に、フィンランドから帰ってきた友達から電話がかかってきました。


フィンランドのご飯はほんと不味いのよ!
と少し呆れていましたが、その不味さによって、食べるということにすごく謙虚になれたそうです。


東京は、美味しいものが多すぎて、逆に吐きそうになる所よね、とその友達は云いました。



僕はフィンランドの食事の不味さと、昼のチャーハンがどこかでつながったような気もしました。