空から分けていただく。

電車に乗って、空。


電車に乗って、車窓から何の気なしに空を見たりすると、「今まさに僕が電車に乗って走っているこの街と、空とを分ける境界線って、一体何だろう?」と考えてしまいます。ぼんやり。


単に視覚的なことだけでそれを区分するなら・・・
■ビルの屋上の稜線とか、
■どこまでも続く電線とか、
■やたら高いところに掲げられた広告看板とか、
いかに空に近いところにあるものによって、空と、空でないものを区別します。当たり前ですけど。


でもそれって、一寸疑問に思ったんですが、街(地上)にあるものの基準でしか、空を判断してないんですよね。
空の領分を、自分達の作ったものの側で決めてしまっている。


街がないと、僕らは空を認識できないのでしょうか?(なんだか映像表現のテーマになりそうなお題ですね。)


それがいいとか悪いとか、全くそんな問題ではないけど、でもしかし、そこには確かに見過ごしてはいけない、物事の本質を慎重に進めていくための素材があるような気がしてなりません。

僕が云いたいのは、空の領域を街の側で決めてしまっていることに、だ〜れも気付かないし疑問を持たないことが、時には戦争のような(どうしようもできない類の)争いの原因になって仕舞う可能性があるかもしれない、ということです。


わああ、話を大きくし過ぎましたね(笑)すいません。
まあ、そこまで大袈裟じゃなくても、空という概念を自分らで勝手創ってしまっている時点で、人は争うことを宿命付けられている生き物なんだなぁ、と思うのです。


ちょっぴり、無常。


だって、空って認識がるから、「空が美しい」って思える分けですよね。
朝焼け、日本晴れ、夕空、夜空・・・空を指す言葉は無限で、こんなにもキラキラしているのに、そういう人が作った実感のある言霊が、実は人間は自分以外のものを傷付けてしまう、って本質を証明しちゃっていますから。








空から、「やあ、ここからは空だよ」って教えてくれるなら、それはとても楽なことだし、また事実そういうことはありえません。


空、は僕たちの作ったものです。


空が奇麗、って感覚がある限り、僕らは隣の人を時々攻撃したくなります。



風が吹いて。



空から風が吹いてきて、その時だけ、空を感じれるんだったら、いいのになあ。


空から舞い降りたツバメが目の前をよぎって、また空に吸い込まれていく時だけ、空を感じれるんだったら、いいのになあ。



でも、空からはそういう答えをなかなかくれません。



叫んでも、空というものは最初から存在しなかったんだよ、といわんばかりに、僕らのあらゆる絶叫を吸い込んでしまいます。




今日も空が奇麗で奇麗で、僕はまた気絶しそうになるんです。