無意識過剰 〜もぐら花火を経験したとして〜

自意識ではなくて。



例えば、「もぐら花火」のことを唐突に考えてしまいます。


「もぐら花火」は何かというと、これは日本がまだ本当の意味で平和だったころ、子供たちの間で流行っていた遊びの一つです。

① 夕暮れが終わるころ、子供たちはまず市販の打ち上げ花火を一本用意して公園へ行きます。
② 公園でもぐらの巣穴を探します。
③ もぐらの巣穴を見つけたら、打ち上げ花火を半分に折って、中の火薬を巣穴に注ぎます。
④ 皆準備が出来たら、マッチ(お父さんのポッケから盗じゃえ!)に火をつけて、火薬の注がれたもぐらの穴に燃えるマッチを落とします。


すると・・・


⑤ 公園の真上を見てェ!夜空に一斉に、もぐらが打ち上げられるんです!



どーーーーーーーーーーーーん!!!


もぐーーーーーーーーーーッッ!!!(悲鳴)


きゃーーーーーーーーーーッッ!!!(歓声)



冬の風物詩。

冷たく澄んだ空気にキラキラと星が映えて、もぐらのキュートなシルエットが星の透き間を縫って飛び跳ねます。
飛び跳ねて、死にます。
そして、子供たちはそこで死を初めて知ります。死という現実に目を向けられなくて、爆笑するしかないけど。

冬の空気に、死を知った子供の爆笑が、キーン。キーン。と綺麗に響きます。

透明な爆笑。




・・・とか、頭の中で子供の狂喜の歓声を耳にした瞬間、それが妄想の歪みからこぼれた一つの現象であることに気づきます。

気付くまで僕はそれを全く客観視できなくて、妄想が収縮する瞬間、初めてそれが妄想だって自覚できるし、こうやって文章化できます。


でも、基本的には無意識過剰の産物で、歯止めが利く類のものではありません。


でも。
歪みが無意識に生んだイメージというのは、それ自体で大変美しいものです。これは断言できます。


ただ、それには共感軸がありません。
「もぐら花火」の世界には僕しか善悪が存在しないから、僕以外の人が理解するための「手掛かり」が介在しないのです。(だから美しいといえるのだけど)



こういうとき、僕は大抵動揺します。
どう決着を付けたらいいのかと。


「誰か、教えてくれませんか?」


なんて泣き言、ベッドで呟いてみるけど、この声すら僕の無意識から漏れている言葉のような気がして、一瞬気絶しそうになるけど、やっぱり「もぐら花火」は奇麗なんだろうなぁ、いいなぁ、と思います。



そういうものに決着をつけないと、大人にはなれません。
表現を肯定するのは、大人です。


僕は、僕の手をとってやることが、お必。