おこないの素材 を映像に展開してみる。

二日連続で同じネタです。ごめんなさい。

今日はですね、昨日日記で書いた“おこないの素材”を、何らかの方法で連続して映像で提示していくことで、動画表現できないかと。いうことを考えたわけです。



僕は、人が“おこない"をしてしまう原理のことについて考えました。
お母さんが、自分の赤ちゃんを大切に守りたくて、黄色信号の横断歩道を途中で引き返した。というただそれだけの所作が、とても単純で美しいのだ、ということの気付き。


その美しいものの正体を、「おこないの素材」と、考えてみること。




そうした時にですね、ふと、こんなイメージが思い浮かんだんです。



◇ 例えば、朝、女が男のためにコーヒーを注ぐ、仕草。
◇ 例えば、母親が乾いた洗濯物を縁側に取り込むときの、長い年月そうしてきたであろう、手捌き。
◇ 例えば、少年がキャッチボールするときの、まだそれほど訓練されていない(だけど愛すべき)、姿勢。
◇ 例えば、本を読んで感動したときの、真剣にページをめくる、腕の力の入れ具合。
◇ 例えば、学校に遅刻しそうなときの、自転車に乗る男の子の、急速な脚の転がし方。
◇ 例えば、お婆ちゃんが床を雑巾掛けするときの、めいいっぱい前傾の、気の張った格好。
◇ 例えば、湯船に浸かる一瞬の、最初の躊躇いを含んだ体全体の運び方。



・・・そういう極めて日常的で普遍的な、人の「おこない」の上澄みみたいなもの。が確かにあって、そのをを一つ一つ丁寧に抽出し、一番美味しい部分を集めて、一つの連続性の中に再構築しなおすこと。
そうすることで、「人の業」を赤裸々に出来る映像を作れるじゃないかなぁって、ささやかな希望を抱いたんです。



生活のための、当たり前すぎるくらい当たり前の「おこない」。それを洗練して接ぎ足していくことで、もう一度“ひと”を作りなおします。
作りなおすチャンスによろこんで、その喜びをこころに仕舞いたいだけです。




誰にも気付かれずに。
東京の街の真ん中で。
森の深い深い処でするような。
ひっそりした深呼吸を。
してみたいだけです。





やっぱり僕の中に“ひと”が足りなんだろうなぁ。しかも決定的に。そう思います。