毎日マフィンを焼く女の子Aちゃん。

Aちゃんは毎日マフィンを焼きます。


何故かというと、言葉にならない不安を沢山抱えているからで、不安がきちんと眼に見える“かたち”として着地点を見出せないから、だから彼女は不安を絵を描く代わりに、詩を書く代わりに、音楽を奏でる代わりに、マフィンを一生懸命焼きます。


夜な夜な、小麦粉に向かって、黙黙と。

うっすら舞い上がった小麦粉は、多分Aちゃんの髪とか睫毛とかに積もって行くんだけど、多分Aちゃんはそういう現象を一寸奇麗だな思いつつ、多分その美しさでは彼女の手はやっぱり止められなくて、小麦粉こね続けて、「マフィン」って一つの表現まで行き着くことが何より優先されちゃうんです。

「マフィン」が表現だっていうのは、これは確かなようです。



それで毎日焼きあがるから、当然彼女は食べ切れなくて、腐らすか、勿体無いときは学校の友達に包んでいったりします。

まだマフィン歴がそれほど長くないということもあって、学校の周りの友達には「Aちゃん=マフィン」というイメージは定着していないようですが、しばらくマフィン癖が止まないとしたら、Aちゃんはマフィンとセットになって、学校に登場することになります。

そうなってしまうと、多分Aちゃんの本質はマフィン的なものを内包し始めて、たとえばマフィンを持っていかないAちゃんはAちゃんらしくないな、と友達の誰かが思ってしまうかもしれません。
究極的には、学校の彼女の席にマフィンを置いておけば、Aちゃんは授業に出席したことになっちゃう、なんてこともありえるかもしれません(笑・でも、深刻ですけど、そうなったら)


マフィンは徐々にAちゃんに侵食しつつ、また、Aちゃん自身理由が分からないから、その進行を停めることが出来ません。
辛いだろうな、と思いつつ、これが進行していった先にある、一つの究極の形に、僕は美の予感を感じてなりません。

マフィン症が進行すれば、すごい表出になる。意図ではないから、“表現”ではなくて、“表出”ですけどね。
アウトサイダー・アートを目の前にしたときの驚愕が、Aちゃんの中にもなくは、ない。

言い方をかえれば、誰の中にもそういう可能性が潜んでいるってことです。僕はなるだけ、そういうもの注意深く生きていきたいです。




ちなみにAちゃんは、パウル・クレーの「R荘」って絵に関する優秀な論文を書いていたりして、その優秀さがまた僕を泣かせたりします。

この文章、「はちみつぱい」の“塀の上で”を聴きながら書いてたりします。