野犬は干支になれるかな

今年は戌年です。
犬が何かとヴィジュアル的にも、サウンド的にも訴えかけてくる一年になるんでしょうね。干支というのはそう考えると実に気の長い、一年の歳月をかけた空間表現のようにも感じます。犬が、日本というギャラリーを使って、ワンワン♪と表現します。(犬自身は全く能動的じゃないので、表現。と呼ぶは、まあ洒落です)


で、僕が思い出すのは、犬といっても、干支用にパッケージされた犬ではなくて、野犬です。野に捨てられた犬のことです。


僕の故郷は海沿いなんですが、潮の害や津波から家を守るために、海の手前に大きな林が横たわっています。これを防潮林と云うんですけど、そこには沢山の赤ちゃん犬が捨てられて、その内逞しくなって野犬になっていました(性格的には臆病だけど)。
其処に捨てられた犬は例外なく野犬になってたので、子供だった僕には、林そのものが何かの生き物かBlack Boxのように映り、そこに一度迷い込むと“野生的”に、つまりは悪魔になるところなんだと畏怖していました。


野犬は特殊で、彼等の持つ哀しみも特殊です。


彼等はよく吠えていました。怖がっていたからです、人間を。
野犬は絶対一匹で行動しません。人を襲うこともありますが、必ず集団で襲います。それも一匹じゃ心細いからで、野犬大勢で一人の子供を襲うこともあったから、こいつら何て〈こすい〉奴!と思われていたようですが、それは誤解です。

世界が怖いから、一人では襲うことも、逃げることも、生きることも出来ないだけです。


僕は野犬が嫌いでした。獣医になりたいといっていた、2個年上の女の子を、噛んだからです。
結構ひどい怪我だったと思います。狂犬病も持っていて、とても危険だったから、やはり、野犬は悪魔なんです。
野犬を理解するのにまだ途中の考察段階だったにも関わらず、無理矢理そういう“悪魔説”を結論として打ち立ててしまいました。


ごめん。犬。


2006年一年かけて、僕は謝るから。


謝る前に、僕が小学6年生の頃、町役場の保健課の懸命な努力によって、ほぼ全ての犬が射殺されるか、保健所に投獄されました。


そして今はもう、野犬は全滅しています。完璧に。




野犬になる前の子犬は、咆哮します。
それが救済に繋がることを本能的に知っているからです。救済されなくても、そこに“生きたい”という絶対的な目的があって、吠えているわけです。


でもいつしか成長して逞しくなって、SOSがいらなくなって、しかし咆哮は犬の機能の一部になっているから延々止めれなくて、ついには目的を失ったまま、大人の野犬は吠え続けます。

文字通り、宿命的な“ワン!”
助けが必要がないのに吠え続けるのは、犬にとってはシンどいことかな、と思います。


意味のない咆哮の蓄積は、しかしものずごいエネルギーとなって溜まっているはずで、案外小説や芸術は、そういうエネルギーに直接触れるところから始まるのではないのかな、と感じました。感じたというより、少なくとも僕にとっては確信です。




何だか、犬の咆哮に奉公するべき2006年になりそうです。
うははは。