少女の起点

その子は。



トラウマが、あると云えばあるのよ、と云いました。




小学生の頃、遅生まれだった彼女は、周りの子に比べてとても算数の計算が遅くて、すごく一生懸命解いても、結局半分は間違ってしまうという、深い屈辱を経験したようなのです。

一年生が二年生のクラスに入るようなものだったので、物事に対する理解のスピードがどうしても一つ上の子たちに及ばなかったんでしょう。子供の知性というのは非常に敏感なので、そういうささやかだけど致命的な体験は、大きな“試練”として、幼いその子に立ちはだかることになります。




今。




今その子は、写真を撮ったりしています。衝動で。



衝動に動かされた、荒いけど、見事にそれは「表現」だったと思います。



その小学生の頃の体験が全てとは言い切れませんが、彼女の衝動の一部に、遅生まれによって培った(生産的な意味での)コンプレックスがあることは、本人も認めているように要素の一つになっています。




彼女の起点。




たぶん、出発点はいつもかなしいところにあります。かなしみから始まり、官能を経て、またかなしみの坩堝に戻ってしまうのです。無に帰して、楽になることはありません。




日本で。学校で。その少女はある起点を設けました。







生きるためにです。







そういう起点を作っている少女は、たった今も日本に沢山いると思います。
ただ、それを何かの“はじまり”だ、と気付く少女はとても稀だと思います。




そういう女の子のために、チャイを一杯。捧げました。ごくり。ごく、ごくり。





ああ、うつくしい。