おかわりクンの哀しみ
おかわりクン、て、いまモテてるんですよね?(僕、流行に遅れてないですか!?)
蕎麦屋で、そう、僕の大のお気に入りのお蕎麦屋さんがあるのですけど、そのお店で、席の斜め向かいに中学生か高校生くらいの、眼の黒が深くてつぶらな、うぶ毛の生えたようなやわっこい猫背の、如何にも“おかわりクン”が座っていたんです。
でもでも・・・
そのお店は・・・
おかわり、なし!!!(こだわりの蕎麦屋だから)
ついでに、大盛りも、なし!!!
どうしよう〜(焦)他人事なのに、妙におかわりクンに哀愁を感じ始めてしまって、特に彼を助けられるわけではないけど、僕は大切に彼を見守ることにしました。
で、おかわりクンが注文したのが
「鴨南せいろ」
いい。いい線ですね。「カレー蕎麦」だったら、何となくイメージ的にベスト・ヒットしてたとこですけど(失言)うん、いいです。
で、その食べ方なんですが、これがまた非常にはっきりとした流儀を貫いていて、せいろからツユの入った椀に蕎麦を“ひたす”のではなく、文字通り、
“移動”
そう、移動。なのです。せいろからすこぉしづつ蕎麦をすくって、静かぁにツユにひたして・・・いいお蕎麦は、そういう冷んやりして奥ゆかしいものなのですが、彼の場合、せいろからもう蕎麦自体を、ツユの中に“移動”せんばかりの勢いだったのです。
蕎麦の移動。悩む暇もなし。
< せいろ→つゆ→おかわりクンの口→胃 >
こういうのが、もうほんとにダイレクトに行われている感じで、極言すると
< せいろ→胃 >
こういう省略が大袈裟じゃないくらい、気持ちのいい、蕎麦の大移動だったのです。
このとき、思ったのが、彼(等)が食っているのは、人生なんだ、と思いました。
食べずにはおれない。その脅迫的な、殆んど麻薬的な快楽感覚は、おかわりクンの決断の根拠でもあります。食う時にあらゆる皮膚感覚が麻痺して、味わうことに神経が集中します。だから、常々味わわないと、人生の選択を誤ってしまいますし、次の段階まで思考が進みません。蕎麦を食べないと、明日を生きる想像力が、貧弱になるのです。
というか、そのくらい、必死。
だって、
彼は机をがっしり片手でつかんで、蕎麦を吸い込む体勢を整えて、
ぐいぐいーーーーーーーーーーーッ!!
と、綱引きをするように飲み込みます。素晴らしい光景です。
到底、彼の生きる力に、僕は敵わないのです。