肉と、祈りと、倉橋由美子さんの、値段。

小説家の倉橋由美子さんがお亡くなりになられました。


ご冥福をお祈りいたします。




彼女の書いた「聖少女」は、大学一年生の頃に読んで、僕は大体その頃から「少女」というものについて考え始め、そしてそれから一生取り憑かれていくことになります。

僕の中の少女は、非常に緻密で、複合的で、倒錯的なものです。

僕の中で一人の少女がきちんと保障され、一本の明確なイメージの樹として育つのに、幾つのもルーツ(根っこ)があって。ルーツは例えば澁澤龍彦だったり、ミツバチのささやきだったり、鈴木清順だったり、wunderだったり、竹村延和さんだったり、バルテュスだったり、ムンクだったり、牛腸茂雄だったり、ブレッソンだったり、以前付き合ったことのある彼女だったり(その娘には少女を意識付き合ったのでルーツと言うよりリーフ“葉っぱ”ですね)、その一本に、「聖少女」もあるのです。

一本引き抜けば、樹体中の血液はあらゆる全身から、その傷穴に向かって流れ出します。ルーツとは、そういうものです。一個のルーツを失えば、連動的に、体が、血の重さがぐぐっと傾いて、文字通り“根こそぎ”血が、どくんどくん流れます。えへへ。

倉橋さんの死は、だから例えば牛腸茂雄の死であるし、何より前の彼女の死であるような気がします。集中力の中心が、そこに向かいます。


んんん、出血が、気持ちいい。





彼女は、死んだ。










今僕が研修でいる、スーパーには、祈りを捧げた肉というものが売っています。

国よっては宗教・倫理上の理由から、いったん聖職者の赦しを通過した上でないとある種の肉を食せない、という在日の外国人の方が結構いるのです。


祈りに原価は、存在する。


「お祈り代」も、発生すると聞きました。
それが、建前なのか、本質なのか、今はどうでもいいことで、僕にとって重要なのは、「聖少女」という本が、紛れもなく、祈りをなすり付けられた少女の肉によって成り立っていたのだという、勝手な迷信が、「お祈り代」というフレーズによって、確信に変わったことです。



彼女が死んで。



彼女の死肉に、誰か祈りを捧げたのでしょうか?そして、それは幾らですか?

不謹慎ではなく、「聖少女」はそういう種類の小説だったと、記憶しています。



つまり。



彼女の肉に、価値を付けるのは、究極の敬意なのです。僕は、スーパーで買えるような肉の値段をその肉に付けたいし、最終的には自らに付けられたいです。



世の中に存在する全ての人間の肉には、値札を、付けるべきです。それが、平和な世界、だと、本気で信じる、記念すべき命日。








改めて、厳粛に、ご冥福を、お祈りいたします。




壱岐紀仁