男の中の男の中の牛男

今、西部劇の映画を山ほど見ています。ウェスターン・パフェてんこ盛り。"11人のカウボーイ"とか、"ヤングガン"とか、"荒野の七人"とか、"続・荒野の七人"(笑・闘い過ぎ)とか、"デッドマン"とか、"バッドガールズ"とか、めちゃくちゃ。



で、一つ気付いた事(ウフフ)があるんですねー。西部劇の、一つ法則です。



それは。



カウボーイの男たち、のこころ。

彼らは最初に登場した時点で、もうかなり十分にカウボーイ然としています。



なのに、



彼等はさらに“カウボーイ”を目指します。



まだまだまだまだ、カウゥボーイー。



なんで?もう、それ以上カウらなくていいのに・・・と、呆れながら、実も心も“カウボーイ”に捧げて、それでもカウボーイ的なものが足りなくて、常にある凄まじい強迫観念に追い詰められている彼らを、たいへんいとしい、と思うのです。


カウボーイを宿命付けられた人は、その瞬間から自分の中に理想のカウボーイが生まれて、それに追いつこうとする度、理想のカウボーイどんどんどんどん理想が高くなって、収集のつかないくらいの大きいカウボーイに成長したりするんでしょうね。最終的には、個人にとって、それは「神様」以上に、とてつもない存在になって利するんでしょうか。



そういうカウボーイのモチベーションは、非常に怖ろしいものがあるような気がします。



たまたま「カウボーイ」なだけで、それがカウボーイでない場合、人を殺しちゃったりもするのかも、と思いました。




男の中の男の中の男は、実は牛男なんだ。その牛男は理想故に、純粋で、全部を破壊し尽くす魅力があるんです。闘牛。鬼ベコ。ペコちゃん主義。





で、そういう男は、またモてるんですよね?(笑)





ねぇ、ビリー・ザ・キッド。素直に殺したい人が多すぎた、カウボーイ。南無。