靴を、なくしませんか?②

お、約束通り続きを書けましたよ(笑)




で、昨日の続きです。

で、僕は靴をなくしてしまいました。
玄関の前に日干しておいたのが、どこっにもないのです。

走馬灯ではないけど、その靴で歩いた道とか、道を覆う光の具合とか、その道を一緒に歩いていた人とか、その人の喋る唇の具合やらが、結構美しく網膜を駆け抜けます。



んああ、盗られた!



なーんて。いやいや、そう思っては、靴の失踪に関する物語がそこで停まるよ勿体ねぇやと、考えたんですね。


心に明確な負の揺らぎが生じて、しかもその揺らぎは僕に走馬灯めいたものまで用意してくれるものでした。
それって靴に多少なりとも人間を感じていたわけで、(僕にとっては)靴には息遣いが確かにあって、そういう一連の流れを見ると、自分の中の物語を生み出す仕組みみたいなものが、一瞬見え隠れたりします。(その仕組みを解明できた人は、いわゆる“作家”なんでしょう)


靴を盗られた。と少しでも感じ始めたら、まず、こう思い直すと、いい。



靴よ、君はそれなりに無事で、元気でいるかい?



めいっぱい。気遣うのです、靴の安否を、健康を。


馬鹿みたいですか?くす。馬鹿です、僕は。
“馬”鹿で、“馬”を含む僕は、走“馬”灯って“馬”を走らせることだって出来るんだ。


ああ、僕ん中は馬牧場だね。頭の悪い馬ばかりで、それでも馬牧場、たいそう愛しかったりするんですから。ふ。





自分にとって、そこそこを大事なものを亡くしたとき、それは喪失ではなくて、獲得のチャンスだということ。



靴がなくなって、それが悲しいことに誰かが盗んだのだとしても、その事実を自体を恨み哀しみで覆うのではなくて、あくまでその動揺を味わうべきだと、思うんです。

動揺を反復するうち、それは大きなうねりになって、たまに人を感動させる力さえ帯びてきます。


馬が、メリーゴーランドのように加速度的に走りはじめる。



そうなると、靴をなくした事も、実は。楽しかったりします。
ということです。

だから僕は提言します。





「靴を、なくしませんか」って。