紙に選ばれる

呼吸ができんのですよ。



絵を描く、あるいは文字を書く、一瞬。息を止める瞬間が必ずありますよね。
その“息止め”の一瞬が延々と持続されているような極めて密度の濃い時間が、その場所には流れていました。





息止め (ここでは地球みたいに安易に呼吸できませんし。)

逝き止め(生半可に死ぬことも許されませんし。)

遺棄止め(自分の死んだ肉体を捨てて、精神を逃すことも簡単には許されません。)





そんな“アール・ブリュット”の展示を見に行ってきたんです。銀座にも、宇宙。


アール・ブリュットはアウトサイドのアートのことで、端的に言い切ってしまえば、美術教育の範疇(インサイド)に当てはまらない、精神病患者の芸術作品のことです。

彼等は自分の作っているものに対して「作品を作っている」という自覚が全くありませんから、断言して、純粋に内的な衝動によってのみ絵を描いています。



アール・ブリュット=生の芸術。ぐつぐつ。



そして特に印象的だったのが、まともなキャンバス地に描かれた絵が少ない、ということでした。



質の悪い粗末な紙に描かれたものが多く、中には黄色く変色したザラ紙に描かれたものもあって、つまりそれは感情の沸騰が吐き出されればオレは何でも構わない。という生々しさを帯びていて、絵の周りの空気をドロリと変質させていました。(紙自体に、絵を描いた当人の身体的な“ねばり”が癒着していて、その“ねばり”に足を捕られた鑑賞者はなかなか次の絵に進めなかったりするんです)




彼等は、紙に選ばれている。
そう、感じました。





ある作品では、


草にも血管にも似た、正体不明の細い細い神経質な線が画面いっぱいに描かれていて、そこの画面の中央の絵から眼を左に移動させると、スケッチブックから毟り取ったリング穴の破いた痕が、鮮烈に瞳孔に浸入してきます。
まるで「ブツ、ブツ」と音を立てて千切った、痕。痕は傷痕で、生きている人間の傷痕と、殆んど同じ質感だったりします。




絵は、絵だけで成立しない。



紙を、



紙を、見よう。




当たり前過ぎるくらい当たり前なんだけど、絵は、紙が無いと描けません。
でもそれが、アール・ブリュットを鑑賞する際のたいへん重要なポイントだと思いました。



ある者は圧倒的な怒りを抱え切れず、絵を満足にかける道具も紙も絶望的にない処で。
どんなに劣悪な環境であったとしても、紙はそういう人を必ず見つけ出して、描くべき人の元へヒラヒラ舞い寄っていきます。




その紙の流れを、見抜くことが出来るかどうか。それがまた僕自身にとっても、すごく大切な、本質を見抜く裁量なんです。







あと、「紙」は「神」だーなんて思った奴、ブッ飛ばす!!!(笑。+謝。僕もそういう思考の誘惑に負けそうになりましたよもう最悪〜)



アール・ブリュットの作品は、少なくとも神様からは独立していますよ。



だから、改めて、ブッ飛ばす!!!(しょーもない自分)