谷川詩人

今日仕事から帰る途中の路地に、谷川がいました。



「オレは谷川だ!誰も!オレを!知らない!」



と連呼している青年のことです。20代後半でしょうか。

見た目のこと。意外にもですね、彼はホームレス風情ではなく競輪選手のような格好で、すごぶる逞しいのです。もし谷川がわめいていなかったら、僕は谷川が健全者でなかなかの人格者のようだ、と感じていたでしょう。ワイルドで浅黒くて、純粋な面立ちです。



ああ、僕は谷川を知りません。だってさ。初めて見たんだし。



放っておくと、彼はかなりの声量で、さっきの科白を繰り返します。どうしたことでしょ。

その路地は、彼の声で特殊な空間に変わっていました。彼の言葉が、路地を支配していたのも事実です。路地には彼の言葉がいっぱいいっぱい!詰まっています。



「オレは谷川だ!誰も!オレを!知らない!」




確かに。
通り過ぎる誰も、彼が谷川で、一体何者なのか全く分かりません。当たり前のことを、谷川は何度も何度も繰り返します。

当たり前のことを、当たり前じゃないように響かせるのは、詩人の力ではないかと思いました。



通り過ぎても。しばらくして、さっきの声が聞こえます。


怖い。


そう思いました。


逃げれん。


誰も知らないはずの谷川という他人が、谷川自身の詩によって、僕に無視できない存在になりましたよ。もう、いい迷惑なんだ。


そして、ふとこう心の中で呟いたのです。





「オレは壱岐だ!誰も!オレを!知らない!」





想像通り、たいそう貧弱な響きでした。余韻もない。僕は詩人ではなさそうです。
あーよかったよー。