惑星の純度

地下鉄の階段をあがると、病人がいました。




一目で。彼が病人だと分かりました。




30歳くらいでしょうか、普通の身なりではあるけど、微かに、冷えたコンクリートと、それと冷えた牛乳の混ざった匂いがしたような気がしたからです。離れていても、そういう種類の匂いは、こちらが無防備であれば香ってきます。(以前、友達にも似たような匂いを感じました)

僕は。仕事を終えて、家で絵を描くことと、自慰することしか考えていなかったので、つまりは、無防備だったんです。



病人の人の眼球は透明です。



眼ではなく、眼球。
瞼に体よく包まれた眼ではなく、宙に“ポカン”と浮く、二つの球体です。それぞれに重力を持って、辺りのモノを何かにかまわず無邪気に吸い寄せては、不思議な惑星を気取っていて、でもそれは悪意というものでもなく、ただそうして浮いているのです。

左右の惑星は、それが実際一つの人間によって支配されていることも知らず、お互い他者のように認知もしないまま、僅か十数cmの球体間の距離は、実際数万光年のようです。

惑星の重力が、虚構なのです。眼球はそれ自体、生命を持ち、僕らが何かを注視する度にその生命に負荷が掛けられ、それで得られるストレスによって、実態を結ぶものです。


なーんも、ない。負荷がないから、惑星は透明で、幽霊だ。



気持ち悪い。



純粋だから。その眼球は、もう果てしなく純粋で、早く薄い皮の蓋をして欲しいと思いました。

僕は子供の目が好きですが、病人の持つ眼差し純粋さは、子供持つ純粋さを遥かに凌駕していて、見つめられるだけで、僕が今生きているあらゆる根拠を、根こそぎ吹き飛ばしかねません。






病人の眼球は、子供の眼球より純粋。






これは、誰も認めたくない事実ではないでしょうか。特に、身内に痴呆の方がいる場合はそうだと思います。


僕は、死んだお婆ちゃんがそうだったので、それが「すげえ!」怖かったのです。






本当に純粋だった。






階段を昇ると、お婆ちゃんがいる。ゴースト。






すれ違うのに何分かかったのでしょうか。気が付くと、駐輪場でした。無臭。無重力。無責任。

たくさんの車輪があって、それは惑星を輪切りにスライスしたもののように映りました。



「毎日眼球をこいでいる皆さんへ、ご苦労様」


口に出すと、意味がなくて脱力しました。







帰り路、小雨が降る中で、キャッチボールをする二人の少年と、一人の殆んど少女のような面立ちの少年がいました。

小雨が細かい霧のようで、僕は計六個の小さな眼球と一個の野球ボールの運動が紡ぐ、モヤのかかった抽象画に酔ってしまい、やはり安全な純粋さというものはいいものだ、としみじみ思いました。


この時、僕の心から愛している写真家/牛腸茂雄の写真集「SELF AND OTHERS」に載っている、正に一番最後の写真の意味が、よく分かってしまいました。


絵画や映画は、人生の積み重ねの中で、それに対する理解は深まっていくものです。しかし、今日以上の牛腸の写真に対する理解は、恐らくこれ以降の僕の人生の中でもう無いように感じました。絶対的な直感です。






僕は、自分の眼球が本当に存在するのか、一寸心配になりながら、落描きをしました。

耳が心配な人は、音楽でも聴きなさい。僕はMiles DavisのWater Babiesを聴いています。