オンなオフ・ビート

オンとオフ。ビート。





オン・ビート。ビートに“乗った”物語。フィクション。映画。


オフ・ビート。クライマックスのない日々。淡々とした日常。日記。





今日、沼 直也(d)さんと辻 コースケ(per)さんのライブを聴いてきました。
たった二人なのに、まるで阿修羅像(d)と奈良の大仏さん(per)が叩いてるようにグルーブしてて、百人分のアンサンブル効果がありマッシブ。怒涛。

あまりにすさまじい「ビート」の嵐だったので、僕はしばらく、自分の体の中のビートのありか、というものについて考えてみました。


あるのか。


ないのか。


オンか。


オフか。







さて。まあ、僕はヤクザなりにも映像を作っている人間です。

だから。

ここで当然ジャック・ケルアックとか、映画で云えばジム・ジャームッシュとか、「オフ・ビート」、つまり作品の中でビートをはずしていった人たちのことが思い浮かびます。刺激となるインテンシティの強い事件を徹底的に排除して、ただひたすら自分の呼吸する塩梅を、漠々と綴っていくだけです。塩梅、って思わず使っちゃいそうな、オフ・ビートの雰囲気は好きです。ゆるー。



でも。



僕は、沼さんと辻さんのライブを見ていて、はっきり自分の中に「ビート」が鳴っているのを確認しました。刻んでないと、落ち着かないのです。それは、きっとライブだからという理由だけじゃなくて、僕の本質に関わることかもしれないな、と感じました。


僕には、ビートがある。


ということで、じゃあ僕は何か物事を考えてるとき、ビートに乗ってるかというとそうでもない。ビートは、結構避けて生きてきたのに。


うーん。抽象的な話になってしまうのですが。


目の前ですんごい手数と音圧によってビートを刻んでいるのに、それが何故か夜中の冷蔵庫のモーター音のように、ふと日々の隙間に入り込んでは溶け去るビートに変化してしまう、そんな映画。


透明人間の、ビート。ビート・たけし。


人生において。誰もが自分の内面からビートをあみ出していくものだと思うんですが、最近はそうではない、自分の体の外からビートを拾って持ってくるような人たちが増えているような気もします。


とてもクールで、孤独な視線。


眼を合わせる全ての事象が恐ろしく、故に顔をうな垂れたまま、うつむき加減で、足元に落ちてるビート、を“たまたま”拾ってしまう。それを使うかどうかも、よく分かっていなくて、投げたり、捨てたり、する。


「ただ、それだけのこと」


この単純な事実を。出来る限り大声で、耳の悪いおばあちゃんに伝わるまで叫びます。それで咽から血がでるくらい叫んでいるのに、おばあちゃんは気付かない。気付かないんです。