ジャムパンの行方

kaelshojo2007-02-20


そう云えば、大人になってジャムパンを食べなくなったと思った。


今パン屋さんで物色して、ショコラデニッシュとかパンプキンタルトとか宇治金時ロールなんて洒落たパンは買っても、純粋にジャムだけがパンの真ん中にどーんと入った、いなたいパンは視界に入ってきていない。

僕の中でいつの間にかパンはほど良く都市化されていて、昔近所の駄菓子屋で買ったような、甘ったるいジャムパンは殆ど食べることはなくなった。


都市のパンは装飾要素が強い。
例えばデニッシュとチョコとキャラメルとアーモンドを掛け合わせたパン。その何かと何かと何か・・・を合わせて一つのパンに共存させる感じが、東京って一つのパンの中に共存する人々の社会生活を連想させて、思わず苦笑してしまう。
だから、何故僕が勝手に「都市化」なんて読んだりするのかと言うと、そういう人とパンの複雑化を重ね合わせてしまうからだ。

僕の経験だと都市に近づけば近づくほど、パンのクオリティは上がっていくけど、同時に幼い頃舌で覚えた甘い郷愁さえもも、都会のパンの複雑さの陰に隠れて、いつの間にか忘れ去ってしまう。



ジャムの甘さは記憶の中ではなく、舌の先に集約されていく。



甘さは抽象的なものであるべきだ。甘いものは想像を掻き立てるから。それが、美味しさに感性が麻痺して、次第に具体的になっていく。舌や想像が努力しない。味が不自由になっていく。
僕は、この事がなんとなく淋しいのだ。



別にまずいパンを敢えて食べたいわけではない。実際、アンデルセンのパンはとても美味しい。問題は、美味しすぎること。都市はあらゆるものを洗練していくから、妥協を許さないのだ。特に競争の激しい飲食業界において、味の妥協は致命傷だろう。

でも。と僕は思うのです。

でも、あのジャムパンを忘れないようにしたい。洗練の中で磨いていくのは技だけではなく、心構えもだということ。
心構えを大事にしていれば、食べたパンの一つ一つは記憶に残されていくはず。
パンを通して、一つ一つの食べ物に感じ入ること。


よく小金持ちのおばさんや、緊張した面持ちのOLが大量に菓子パンを抱えてレジに並ぶ姿を見ると、暗い気分になる。
非常に身勝手な意見だとは思うが、もっと一つ一つのパンに対して注意深くなることが、よりパンとパンを食べる人をつなぐかもしれないのに。なんて思ってしまう。
事実、昔食べたジャムパンと僕の記憶は今でも結びついている。だからこうして日記に書いたりなんかする。思いも馳せる。
それは偉いことでもなんでもないが、思い出せるものが多いことは、幸せなことなんだと思うのです。パンではなく、それは人にも置き換えて考えることができるから。



帰りにスーパーで苺ジャムを買いました。
なるべく安くて、なるべく甘ったるいやつ。
ホンモノのジャムパンとは行かないけど、僕はしばらくの間、朝食のトーストに真っ赤なジャムを付けて、幼い頃記憶に塗りたくった感覚をささやかに楽しもうと思っています。

下手こそ

kaelshojo2007-02-17


何か習い事を始めるとき、最初は何でも下手なもの。

泳ぎ方を知らない子が、初めてプールに入ったとき、その泳ぎ方はきっと下手だ。
ピアノを知らない人が、始めて鍵盤を叩くとき、きっとメロディは崩壊し、下手な音楽になってしまう。

下手、というのは文字通りの言葉だけど、しかしこの言葉をジッと真剣に考えてみると実はとても美しい意味を秘めているのではないかと、考えた。


下手の価値。


下手は、まず目標とする到達点のイメージがあって、初めて生まれる概念。

綺麗な絵を描きたい。だから、絵の修練が始まる。
カッコいい音楽を演奏したい。だから、楽器の修練が始まる。
極端なことを云えば、小学生の頃から野球をやっている少年達の夢の向こうには具体的に「甲子園」や「プロ野球」という到達点があり、その点に向かって最初はグローブに巧く球が入らなかったり、バットにボールが当たらなかったりの【下手】を経験するのだ。


ゴールがあるからスタートがある。
ゴールのないスタートはありえないはず。
目標があるから、下手が存在するんだと思う。


この下手という状態は、向かうイメージのある本人とって一番苦しいものだ。歯痒いし、全く思い通りにならない自分の体がある。(下手は、身体性を伴うことが非常に重要なポイントだ。)

だから、下手な時期というのは、一番努力するのだ。
こうなりたい!でも、こうならない・・・悔しさもあるし、恥ずかしさもある。
理想との距離に愕然としながら、しかし這いつくばるように、前進を始める。


僕は思うのだ。このスタートを切ったばかりの不器用な人の姿は、無心で目標に向かっているという点で、非常に純粋なんじゃないだろうか、と。
表現をする人にとって、下手の状態は、実は表現者として一番純粋なはず。


ただただ少しでも上手くなりたいという一心で、自らの掲げる目標に対して全く雑念のない、ピュアな状態。


これが少しづつ上手くなりだすと、きっと様々の誘惑によって、濁りはじめる。
何々の大会で優勝したい。とか、あいつより上手くなりたい。そして、磨いた技術でできればお金を稼ぎたい、など。

具体的な目標が枝葉状に際限なく派生してくる。目標があまりにも現実的になるし、一つ一つの到達点が卑近なものになる。
リンゴの樹全体の成長が見えなくなり、リンゴの実一つ一つを育てようとしてしまう。目標が小さくなる。
こうなると最初のピュアな状態は維持しにくくなる。


下手なとき、向かう到達点はとても抽象的なもの。
太陽の光の如く輝く向こうの世界があって、暗闇から這い出るために、光に向かってがむしゃらに突き進む。
具体的な雑念がないから、自分の体を100%使い切ることができる。これが【下手】の最初の状態。完全なる身体。

上手くなるにつれ、この100%は結果の方に吸収され始め、その純粋さは段々と低下していく。


上手くなること自体わるいことでは決してないし、むしろ生きていくには必要なことだ。
下手は、それ自体生まれた時点で、徐々にその純粋さを失っていくのは一つの摂理だ。その純粋さを保つのは容易なことではない。不可能に近いかもしれない。



アウトサイダーアートの作家というのは、有名なヘンリー・ダーガーにしろ、自分が上手くなっているという自覚は殆どないはずだ。彼の人生の最初から最後まで、描いている絵というのは殆ど変化がない。
だから普通の常識のある人は驚く。


「これは、何て純粋な絵なんだろう!」と。


絵を見て純粋と感じているようで、実はある種の下手さを維持していることに、人々は驚くのだ。
ダーガーは自分の絵が褒められたいとは思っていない。彼の中に栄光とか実績は存在しないのだ。
ただただ己の中の光に向かって、淡々と歩んでいる姿は、きっとピュアに見えるに違いない。実際私達はそう思うから、金を払ってまでもその下手さを見に行くのだ。
奇跡が見たいのだ。




下手は、それ自身が初めて世に生まれたとき、最も純粋で、美しいものである。
日々を生きているとこのこと忘れがちだけど、下手の初期衝動はいつまでも胸の奥に映し続けたい、と願う。

云わザル。

kaelshojo2007-02-12


本来自分で口を閉じるサルのことを言うけど、このサルは苔に口を封じられています。



このサルは何か云いたいことがあったのか、或いは絶対喋ってはいけない禁断の言霊をいまだに体内に封じているのか・・・。


地蔵にはもともと人の想いを封じ込める役割があります。
偶像というものは、大概そういうものです。人の祈りが形になったものです。


人の祈りがないまま、形を作っていくの近代です。
形は更によりよい形を求めていこうとしますが、祈りという魂が込められないと、そこに人が入っていけなくなります。

僕は東京は元より、地方都市にそういう形主義の街が増えているような気がします。街自体はどんどん綺麗になっていくのに、その街には人が入り難い。この矛盾の根は深そうです。


かつての日本は、喋りすぎるサルの神さまに、他の神さまが文字通り口封じとばかり苔をはってきたりする余裕があったんです。それほど神さま同士の垣根が低かったんですね。
何より大らかだったし、隣で何かあると放っておかなかったんです。嫉妬もするし、悦びもする。



しかし今日の写真、じっと見てると本当に何か云いいたそうですね。

地蔵様 ②

kaelshojo2007-02-07


しっかり根を張った顔中の苔が、この地蔵様の生きてきた時間を証明します。


人々に忘れられ、殆ど手入れのされていないこの顔は、しかし毎日ピカピカに清掃される都市の共同墓地より、ずっと美しく堂々とした気概を感じさせます。


この顔と向き合っていると、不思議と気持ちが落ち着いて、その気持ちの余裕の隙間を縫って、かつて僕が関わってきた人たちのことを僕の心に縫い付けていきます。



特に、死んだぼくのお婆ちゃん。

少年ジャンプを毎週一度も欠かさず買ってくれたお婆ちゃん。
母が仕事を辞めそうな時、じっと静かに励ましたお婆ちゃん。
兄が高校生の頃家出をしたとき、真っ先に探したお婆ちゃん。

本当に誰にも迷惑をかけずに、ひっそり死んだお婆ちゃん。




記憶は時間とともに輪郭が曖昧になっていくものだけど、この地蔵の顔をじぃーっと見てると、一つ一つの思い出がにわかに粒だってきて、既に薄墨でのばしたようになってしまっていた記憶が、はっきりと濃い黒を取り戻していきます。


淡く、墨の薫りが立ち昇ってきて、それで僕は精一杯お婆ちゃんに甘えていたこと、そしてお婆ちゃんが精一杯甘えさせてくれていたことを思い出します。僕とお婆ちゃんの関係は、ある種の完璧さを表していたように思います。

お婆ちゃんの優しさは、ほんのり甘い、墨のような薫りのするものです。


今はその墨をつかって、何かを描きたいと思います。写真だったり映像だったりするけど、それらを描く原料の墨は、こうして苔むした地蔵様の前で手を合わせることで再び補充していくのです。

地蔵様のかお

kaelshojo2007-01-31


今、地蔵様を撮りためています。
ふとした瞬間に、まるで生きているかのような気配を醸すから不思議です。

地蔵様にレンズを向けるとき、僕はなるべく人と対話しているような気持ちで
接するように努めています。


地蔵様を通して、人の顔を撮りたい。同時に人の顔というものを問いたいからです。

地蔵様の顔はある表情を固定していますが、それは時を止めたというより、人のある
側面の表情の普遍を閉じ込めている感じがあります。
時は止まっているのではなく、無限の時間が横たわっているだけです。
「喜び」は喜びで変わらないものだし、「哀しみ」は哀しみで風化しないものです。

・・・これを諸行無常っていうのかな?



近くまとめて、今までの写真も合わせて写真集を作ろうと(自費で・・・)考えています。
無常な割に、情に弱い人間の写真集になったらいいな、と思っています。

形見

kaelshojo2007-01-17


置き去りにされたモノが、それを持っていた人の記憶から忘れ去られた瞬間、それがあった『場所』の形見になる。


人に見放され、場所に魅入られて、モノは初めて侘び寂びを帯びるような気がします。

流転する時間の中で、永遠を手に入れるのでしょうか。



形見は、いつも忘れ去られそうだから、美しいのだと思います。